江戸時代の大名家生存率と血統のサバイバル術について(CEOブログ)

戦国大名の生存率と、織田信長の元家臣たちの割合

織豊時代末、日本全国に存在した「戦国大名家」は、総数で146家とされています。しかし、江戸時代という長い期間を経て、幕末まで1万石以上の大名として家名を残すことができたのは、分家を含めても33家のみでした。戦国大名全体が幕末まで大名として存続できた割合は、約22.6%。残りの約8割の家は、歴史の過程で領地を失い、大名という地位から転落しています。

この厳しい生存競争の中で、織田信長の主だった元家臣たちの末裔はどうなったのでしょう?そういえば、今まで調べたことがなかったので、気になっちゃいました。

調べたところ、江戸時代末期の日本には、全体で約260から270家の大名(諸藩)が存在していましたが、このうち、前田家や池田家など織田の旧家臣団をルーツとする家と、織田の直系を合計すると、約34家前後が幕末まで存続しています。 当時の全大名数を分母とすると、江戸時代末期の全大名の約12%から13%が、織田信長の一族やかつての部下の末裔によって占められていたようです。

最高幹部たちの排除と、丹羽家が背負った「120万石の負債」

その中で、当然ながら、織田政権の意思決定に直接関与していた「トップクラスの重臣たち」末裔の生存率は、極めて低いのです。

明智家はもちろん、信長政権の最高幹部であった柴田勝家、滝川一益が信長の死後、数年内に排除された結果、豊臣政権が樹立されたのですから、まあ、当然でしょう。

その中で、唯一、家を存続させたのが丹羽(にわ)家です。 とはいえ、こちらの家系にもなかなかな運命が待ち構えていました。初代の丹羽長秀は、本能寺の変の後、いち早く秀吉の権力掌握を認め、彼に恭順しました。秀吉はその行動を評価し、長秀に越前・若狭・加賀の約120万石という巨大な領地を与えます。 しかし、長秀が病死し、息子の丹羽長重が家督を継ぐと、事態は一変します。秀吉は、織田家の旧恩を強く意識する120万石の巨大勢力を警戒しました。秀吉は、長重の家臣に不手際があったという理由をつけ、丹羽家の領地を若狭15万石へ減封、さらに数年後には加賀4万石にまで削減しました。わずか数年で、120万石から4万石への転落です。旧政権のトップ層に属していたという過去の経歴そのものが、新体制における生存の「負債」となりました。

領地没収からの復活。実務能力による10万石の奪還

しかも、丹羽家の試練はこれで終わりません。長重は関ヶ原の戦いにおいて、家康の命令で動く前田軍を牽制するため、西軍として参戦しました。戦力差で勝る前田軍と激しく戦い、講和を引き出しましたが、西軍は敗北。長重は徳川家康からすべての領地を没収(改易)され、大名としての地位を完全に失ってしまいます。この時点で、ほぼゲームセットって感じですよね。

しかし、ここで長重は、過去の栄光を完全に捨て去ります。 彼は浪人となった後、徳川秀忠の家臣として1万石で再雇用されます。そこで彼は、自らの専門機能である「城郭建築と土木工事」の能力を徳川家のために提供しました。 彼は大坂の陣において軍功を挙げ、常陸国江戸崎藩1万石から陸奥国棚倉藩5万石へと昇進します。さらに、幕府が東北地方の防衛拠点として重視した白河小峰城の築城プロジェクトを完璧に完遂した実務能力が評価され、陸奥国白河藩10万石の大名として復活を遂げました。旧体制のトップという看板で潰されても、自らの土木機能を提供し続けることで、再び10万石の地位を自力で構築した事実です。やりますね、長重!

丹羽家の後日談。戊辰戦争の敗北と家の存続

長重の死後、丹羽家は息子の光重の代に陸奥国二本松藩10万石へ移り、そこから200年以上にわたり、幕末までこの地を治めることになります。 しかし、幕末の動乱期において、またしても、丹羽家は再び最大の危機に直面します。慶応4年(1868年)、新政府軍と旧幕府軍が衝突した戊辰戦争において、二本松藩は奥羽越列藩同盟(旧幕府側)に参加し、新政府軍と交戦することになります。

当時の二本松藩は、主力部隊が白河口の戦いに出向いており、城の防衛兵力が極端に不足していました。そのため、12歳から17歳の少年たちで構成された「二本松少年隊」が動員され、最前線での戦闘に投入されました。彼らは新政府軍の圧倒的な火力の前に次々と戦死し、二本松城は炎上して落城します。藩主の丹羽長国は米沢へと逃れ、後に新政府に降伏しました。

普通であれば、いよいよここで家は消滅しそうなものですが、またしてもしぶとく、丹羽家は生き残りました。降伏後、丹羽家は半減の5万石(後に3万石)への減封という厳しい処分を受けましたが、家名の存続は許されます。明治維新後、丹羽家は華族(子爵)として近代社会に組み込まれ、その血脈を後世へと繋いでいます。 120万石から領地ゼロに転落し、土木工事で10万石を取り戻し、戦争で城を焼かれても、しぶとく生き残る。こういう生存に対する異常なまでの執着と、泥臭い行動力は大いなる称賛に値すると思います。

無害化された織田の直系と、皇室に繋がる血脈

そして、歴史の事実としてもう一つ特筆すべきは、かつての絶対的支配者であった織田信長と、豊臣家の血統の行方です。 織田の直系および弟の家系は、出羽天童藩や大和芝村藩など4家の小大名(1万〜2万石)として存続しました。彼らは徳川幕府から軍事的な権力を与えられず、「無害な存在」として振る舞うことを条件に生存を許されました。天童藩の織田家などは、藩の財政を維持するために家臣に将棋の駒を作らせるという、武力に依存しない産業によって命脈を保っています。

さらに、余談ながら、権力闘争の中で滅亡したとされる豊臣家の血脈も、全く別の経路で現在まで存続しています。 秀吉の姉である「とも」は、身分の低い農民であった「弥助(後の三好吉房)」に嫁ぎました。この弥助との息子である豊臣秀勝が、信長の姪(お江)と結婚し、完子(さだこ)という娘が生まれ、公家の九条家に嫁ぎました。豊臣家が滅びた後も、この完子の血脈だけは公家社会の中で保たれ、その子孫は九条節子(貞明皇后)として大正天皇の后となります。現在の皇室には、織田家の血と、農民であった「とも」と「弥助」の血が確実に受け継がれているのです。本日(3/8)OAの「豊臣兄弟!」では、弥助は、秀長の許嫁を死なせてしまった責任を取り、自害しようとして止められていましたが、あそこで亡くなっては、今日の皇室の皆様は存在しなかったんですね。早まらなくて、よかったよ、弥助!

弥助の血脈のお話はともかく、織田家といい、丹羽家といい、時には過去のプライドを捨てて現在の環境に適応、サバイバルに徹することは、どんなに時代が変わっても生き残るための、極めて実用的な手段なのですね。